AIの遠い祖先『謎のチェス指し人形「ターク」』
IBM製のチェス・コンピュータ「ディープ・ブルー」が人間界のチェスの世界チャンピオンであったカスパロフを破ったのは、21世紀も間近の1997年のことである。それ以前、本当の意味で機械と人間が知的競争を始めたのはごく近年のことであるが、本書『謎のチェス指し人形「ターク」』で紹介される「ターク」は、18世紀にその流れの先鞭をつけた存在であるとも言える。
人間を模倣する「ターク」
当時、精巧なぜんまい仕掛けのオートマトンが流行し、産業革命のさなかにあって人間の身体的労働を置き換える機械が登場していた。しかし、人間の心理的な能力を機械が模倣することは無理だと考えられていた、その時代に、その可能性を人々に見せつけたのが「ターク」だった。その意味では、「ターク」は現代のAIとも遠くつながっているとも言えるのだ。
この「ターク」そのものはかなり有名だが、顛末をご存じない方もいるだろうから、ここでは詳細には触れない。実力のほどは圧倒的とまでは言えないものの、当時の最強プレイヤーに「人間との勝負でもあんなに疲れたことはいまだなかった」と言わしめたチェス機械、とだけ紹介しておこう。ターバンと長いパイプが印象的な異邦人風の人形が、テーブルに置かれたチェス盤に向かい、駒を操る。実際のところ、重要なのはテーブルの下に秘められた「内部機構」なのだが、「ターク」をチェス機械として認知させたのはこの人形だったのかも知れない。
神秘の機械「ターク」
本書は、この「ターク」を、そのデビューから最期まで、当時この神秘の機械に夢中になっていた人々の目線で、そして詐欺に違いないと暴露に躍起になっていた人々の目線で、追いかけてゆく。その「人々」は、生地ウィーンからヨーロッパ全土、アメリカまで広がり、ナポレオン・ボナパルト、ベンジャミン・フランクリン、チャールズ・バベッジ(「コンピュータの父」と言われる、プログラミング可能な計算機の考案者)といった各界の大立者を含んでいたというのだから、ローカルな見世物とは規模が違った。まさに社会現象という感だったのだ。
もちろん、著者は本書の最後でキッチリと、「ターク」の秘密を種明かししている。最後の所有者が公式記録を出すまで、完全に正しい仮説を示した者は一人もいなかったというが、言われてもみればさもありなん、というところだ。それで85年も生き延びたのは、興行側の巧みさもさることながら、観客側の夢の投影もあったのだろう。神秘の機械には、人を惹きつける力、そして人を惑わす力がある。現代のAIもその点は同じだ。
【もう一冊】チェス・マスターの哀しい一生
この「ターク」をモチーフにした小説に、小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』がある。モチーフ、と言っても筋立てや情景は、本家とはまったく異質だ。チェス人形と共に生きたリトル・アリョーヒンとミイラの関係は、実に切ない。
管理人は現代作家の小説はそれほど読まないのだが、「小川ワールド」と称される独特の感性にうならされる。タイトルからして独特、しかも一語一語に意味がある。
謎のチェス指し人形「ターク」
トム・スタンデージ 著
服部 桂 訳
NTT出版
猫を抱いて象と泳ぐ
小川 洋子 著
文藝春秋(文春文庫)