専門家と一般人との間の深い溝『専門知は、もういらないのか』

社会

 かつては一部の特権階級の独占物であった専門知は今や一般大衆に開かれた、はずであったが、実際にはそうはならなかった。むしろ、専門知や専門家を軽視する風潮が生まれ、専門知が支えるべき民主主義を危機に陥れている。本書『専門知は、もういらないのか』は、そうした実情を憂う「専門家」である著者からの、無知礼賛の風潮に対する反論の書だ。
 著者は、主にアメリカの状況を念頭に、サービス業と化した大学教育、安直な知をもたらしたインターネット、エンタメと同化したジャーナリズム、無知を利用するポピュリズムなどを例に採り、民主主義においては誰の意見にも同じ価値がある、専門家による専門知の強調はエリート主義である、といった見解がいかに誤っているかを力説する。そして、専門知とその担い手である専門家あるいはエリートは、この複雑化した現代社会においては、何と言われようとも必要なのだと言い切る。

アメリカの専門知と専門家

 本書を一読して驚かされるのは、かなり詳細に述べられているアメリカでの実情である。日本にも、専門家を差し置いての知ったかぶりはあるけれども、「無知であること、とりわけ公共政策に関する無知を、まさに美徳だと考える」、「専門家の助言を拒否することが自主性の主張」になる、というような筋金入りの無知礼賛は稀だろう。
 日本の大学がレジャーランド化したと言われて久しいが、それは大学の規律の甘さに乗じて学生が勝手にやるもの。ところが、アメリカでは競争力を高めるため、大学自らが顧客第一主義に突進しているという。インターネット上の怪しげな情報、専門家と一般人との間の信頼の欠如、有名人の専門分野(あるいは専門家の非専門分野)への越権行為、といったことは確かに日本にもあるが、本書に書かれているアメリカの状況ほどではないように思う。
 アメリカには従来から、科学をまったく無視する宗教的原理主義や、根拠のない似非科学や超常現象を易々と信じるような精神風土はあったと思うが、それだけではないようだ。ポピュリズムとしか言いようのない近年の政治的混乱も、社会の分断ばかりでなく、それなりの背景があってのことなのだろう。

日本の専門知と専門家

 では、日本は本当に大丈夫なのだろうかと考えると、また違った姿が浮かび上がってくる。
 日本の専門家集団でおそらく世界唯一なのは、専門家のムラ社会だろう。「原子力ムラ」や「感染症ムラ」など、危機に際してその暗部を外部に晒してしまったものもある。ムラだからと言って、その専門知の質が直ちに低下するわけではないだろうが、専門家に対する信頼はずいぶんと損なわれてしまった。
 それより罪が重いのが、御用学者だ。政権の御用学者ならどこの国にもあるだろうが、日本にはメディアの御用学者がいかにも多い。同じ現象を白と言う専門家を連れてくるのも、黒と言う専門家を連れてくるのも難しくはない。そこでメディアは、自らの「確証バイアス」を膨れさせ、世間に溢れさせるために、専門家を都合よく利用する。
 専門家そのものの劣化もある。大学が増え、民間の研究所やシンクタンクも増える中、専門家も増えているのだから、これは致し方ない。しかし、本当に能力があり、良心的な専門家はめったに一般人の前に姿を現さない一方で、弁舌の才はありながら、肝心の専門知は少々疑わしい専門家は、一般人相手のメディアが主戦場だ。これでは勝負は明らか、一般人から見える専門知は劣化し、専門家の信頼は地に落ちる。
 コメンテーターという不思議なものがある。彼らの大半は、(ほぼ)いかなる分野での専門家でもなく、(ほぼ)コメントすべきことはないはずだが、専門家との「橋渡し」や専門知の「かみ砕き」を超えて怪しげな自説を述べ立てている。さらには、そのコメントを拾うメディア記事という、どうしようもないものまである。昔から評論家は役に立たないと言われたものだが、コメンテーターはそれに輪をかけた存在だ。

専門家からの異議申立

 本書は専門知がテーマであるが、話の大半は専門家についてのものだ。確かに、専門知を持つ者を専門家と定義するなら両者はイコールで良いのだが、それよりも、専門家の立場の擁護や、不当な扱いに対する異議申立、というのが本音ではないか。このあたり、専門家として不遇の時代を生きている著者の「恨み節」も混じっているようだ。


専門知は、もういらないのか 無知礼賛と民主主義
トム・ニコルズ 著
高里 ひろ 訳
みすず書房

書評

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