なぜ西洋で科学で発展したのか『新しい科学論』
ルネサンス期以降、ヨーロッパで近代自然科学が発展した、というのは一つの常識である。それ以前、古代中国やアラビアでも相当な科学(あるいは技術)が発達したことはあったが、その地で現代の科学につながるものとはならなかった。
では、なぜヨーロッパだったのか。本書『新しい科学論』は、常識的な科学観(事実から理論が帰納される)に対して新しい科学観(理論が事実を創り出す)を提示しようとするものであるが、その検討の過程で、上の疑問に答えてくれる。いわば、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の科学版である。
自然科学は神の意志を理解すること
ヨーロッパは当時、交易や文化の中心となっていたから、そこで自然科学が発展したこと自体は不思議でないのだが、厄介なのは宗教(キリスト教)の存在だ。ガリレオが地動説を主張して教会から撤回を迫られたことは有名だ。宗教は「迷妄」とは言わないまでも、反合理的性質を免れないのではないか。そう考えると、ヨーロッパでは宗教の力が強かったにもかかわらず、それと対立する自然科学が発展したことになる。しかし、本書の見方は逆である。
本書は、現在の我々が理解するような宗教と距離を置いた自然科学というのは、18世紀に入ってから自然科学の自己反省を経て初めて成立したもので、黎明期の自然科学はむしろ宗教と表裏一体をなしていたのだという。典型は「神は自然そのものである」と説いたスピノザによる理神論で、自然は神が創造した秩序であるというものだ。そうであれば、自然を理解することすなわち自然科学は、神の意志を理解する敬虔な行為ということになる。つまり、ヨーロッパでは宗教の力が強かったがゆえに、それと表裏をなす自然科学が発展したというわけだ。
本書が指摘するとおり、コペルニクスもケプラーもニュートンも、そしてガリレオさえも、熱心なキリスト教の信者だった。ニュートンに至っては、その研究が神学にまで及んでおり、全知全能の神が宇宙の体系を生み出したというようなことを言っている。
現代につながる「真理の探究」
科学上の研究はある意味失敗と苦労の連続で、ほとんど一生をかけてようやく成果が出るか出ないかというものだ。それでも、成果を出そうとすれば継続するしかない。そこを突破する原動力が、宗教にあったというわけだ。宗教的情熱が人間をドライブする力に敵うものはない。
現代ではどうだろう。実際のところは、学会での地位や社会的な名声、ノーベル賞、経済的利益なのかも知れないが、それらはあくまで世俗の動機である。人々の役に立つというのでも、まだ足りない。「真理の探求それ自体」というようなことが持ち出されるのは、ある種の宗教感覚を求めているからではなかろうか。
本書はもともと常識に挑戦するという趣旨の本だから、以上の見解も定説として受け入れられていうのかどうかは分からない。また、ヨーロッパではルネサンス期以前、何世紀にもわたって宗教と科学(当時は哲学の一部)の関係自体が大問題として議論されてきた歴史があり、事はそれほど単純ではないのだろう。だが、管理人としては実に腑に落ちた。
新しい科学論 「事実」は理論をたおせるか
村上 陽一郎 著
講談社(ブルーバックス)









