シェイクスピアは誰なのか『謎ときシェイクスピア』
本書『謎ときシェイクスピア』は、シェイクスピアが誰なのかを探った謎解き本である。もちろん、シェイクスピアはシェイクスピアに決まっているのだが、長年「本人」とされてきた劇団の一役者シェイクスピアは隠れ蓑で、実際の文豪シェイクスピアは別の人物に違いない、という説が昔からある。そして大変熱心に主張されている。しかもその主張者の中には、フロイトやマーク・トウェインといった大立者が少なくない。そして「本人」の候補も、フランシス・ベーコンやオックスフォード伯爵をはじめ、何人もいる。「グループ執筆説」というのまであるという。
他方、「正統派」のシェイクスピア学者は、「役者シェイクスピア=文豪シェイクスピア」説を採る(これを「ストラットフォード派」という)。採るだけなら良いのだが、別人説を一顧だにせず、一笑に付すような態度をとるらしい。著者もまた、ストラットフォード派に入るのだが、「正統派」学者の態度も問題だとする。時にひどいこじつけがありながらも別人説が人気を得ているのは、彼らが行ってきた説明に納得がいかないからではないか。そこで、きちんと謎解きをしてみようというのが、本書である。
別人説の根拠とは
そもそも、なぜ別人説などが登場するのかと言えば、ろくに教育もない田舎者の役者シェイクスピアにあれほどの作品が書けるはずがない、ということが大きい。作品には、欽定訳聖書の数倍の語彙が駆使されており、深遠な思想や科学的思考、自然でリアルな貴族の描写まで含まれている。そんな芸当が一介の役者に出来るわけがない。これは教養ある上流階級の人物が書いたに違いない。そいういった推理から、別人説がいう有名人が候補に上がってきたのである。
しかし、と本書は言う。詳細はあえて触れないが、いろいろと論拠を挙げて別人説の問題点を明らかにしていく。そして実は、ストラットフォード派には、陰謀説でも持ち出さない限りは破れない決定的証拠があるのだという。なるほど、華麗な語彙や深遠な思想は、才能さえあれば他から移植することもできる。貴族の描写も、適当な見聞の機会があれば材料として取り込める。しかし、一番肝心のところ、人間の心情や機微は真の天才がなければ書きえない(はずだ)。それは上流サークルに閉じこもった教養人より、市井の役者にこそふさわしいのではないか。
教養人と洞察力
良く考えてみれば、ドストエフスキー、ディケンズ、バルザック、スタンダール、などなど、文学史上に名を刻む文豪たちは、決してお上品な教養人ではなかった。人により作品により、時には文章までが破格となったり、構成に矛盾が生じたりしている場合もある。しかし、恐るべき洞察力で人間を丸ごと把握し、文章に定着させてしまう。
ところで日本の文壇の場合、漱石、鴎外、芥川、太宰、谷崎、川端、三島、と教養人あるいはインテリが多かったようだ。インテリが読む純文学と大衆が読む大衆文学、という日本特有の構図が関係していたのだろうか。それで「人間を丸ごと把握」できなくなるわけではなかろうが、発想が似通ってきそうな気もする。実際はそうでもなさそうなのは、生活面で問題を抱えていた人もいたりして、それなりに釣り合いが取れていたからだろうか。
【もう一冊】テクストの計量分析
本書とは少し趣向の違う本に『シェイクスピアは誰ですか?』がある。この本は、文や単語の長さ、語彙の出現頻度といったテクストの計量分析という手法で、シェイクスピア(だけでなく他の多くの著述者)が誰なのかの謎に迫っている。研究によれば、ストラットフォード派がやや優勢だが、反対の結論を示すものもあって結論は出ていないようだ。
謎ときシェイクスピア
河合 祥一郎 著
新潮社(新潮選書)
シェイクスピアは誰ですか? 計量文献学の世界
村上 征勝 著
文藝春秋(文春新書)









