嵐の中を放浪するのは天才か落伍者か『放浪記』
本作『放浪記』は、冒頭にある「私は宿命的に放浪者である」の言葉が印象的な林芙美子の代表作。出版社の説明によれば、「貧困にあえぎながらも、向上心を失わず強く生きる一人の女性」の自伝風の作品、というようなきれいな話になるのだが、実際のところは作者も作品も掃き溜め、もとい嵐の中を放浪しているような作品である。売れた結果だろうか、時期を変えて少しづつ趣向の違う第一部から第三部までが出ている。
破れかぶれの日記
第一部は、それこそすべてをぶちまけた破れかぶれの日記のようなものだ。第二部は少しおとなしく、故郷の因の島行きを中心に書かれたもの。第三部は主題は相変わらずだがそれまでの暗さは目立たずテンポが良い、第一部の破れかぶれも捨てがたいが作品としては最も整った印象だ。このあたりは読み手の好みが出るところだろう。
自伝的な作品とはいえ、実際には相当の脚色が入っている。そのあたりのことは、第二部の終わりに言い訳のように挿入されている。この打ち明け話もまた、どこまで実際を反映しているのか分からないが、作品世界のまったく絶望的な状態に置かれながらもそれだけに希望ののりしろがあるのと、実際世界の希望は一応かなえられながらも解消しがたい苦難をかかえているのと、どちらが苦しいのかは分からない。
苦境と挫折と心の弱さ
作品は全体として、ひどい男への依存からいつまでも抜けられない(本人ばかりか母親も)、親との間に軋轢があってもはっきりした態度がとれない、優柔不断のもどかしさが目立つ。実際のところ、作品の主題にあるはずの「向上心を失わず強く生きる」といったことよりも、内面の弱さの印象の方が強い。作者ばかりでなく誰にでもある苦しみで、経済的な苦境などよりも、詩と芸術への挫折などよりも、あるいは大きいところかも知れない。
第一部が典型だが、本作は「はらわた」まで見せるスタイルだ。はらわたを見せるから売れるのか、売れた人のはらわただから見てもらえるのか、と言えば後の方だろう。よほど万人の心を打つはらわたが描かれれば別だけれども。このはらわた方式、つまり自然主義文学は、作家から芸能人に受け継がれ、現代ではユーチューバーが引き継いでいるようである。もっとも、はらわたを見せているようでいて相手が見たいはらわたをうまく創って見せているだけというのもあるから、要注意ではある。
天才の「はらわた」を見よ
さて、本作は大変に有名な作品であるが、その文学的価値がいかほどのものかは良く分からない。しかし、森光子の舞台(管理人は見たことがない)によってその有名さが揺るぎないものとなったことは確かだろう。小説が映画化される場合は、オリジナルはあくまで小説の方、映画に小説の後光が差す。しかし、本作の場合は逆の後光が差しているようでもある。少なくとも、森光子の舞台を否定できない人は、ほぼ自動的に本作を否定できないような関係にあるように思われる。
そういうところで、本作の評価は少しかさ上げされているという気がしないでもない。それでも喜んで読むのは、管理人もまた、型破りの天才であるかも知れない人物の「はらわた」には弱いということだ。そして、その人物が社会生活の落伍者のようでもあれば、なおさら得られるものがあるように思ってしまうのだ。
放浪記
林 芙美子 作
新潮社(新潮文庫)
本作は、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000291/card1813.html)に入っている。