笑いは武器かガス抜きか『ナチ・ドイツと言語』

言語,社会

 少し以前に、日本のコメディー界には欧米のそれにあるような権力批判が欠けているのではないか、というような話があった。確かに、(皆が皆ではないにしても)欧米の一流のコメディーには笑いだけでなく、権力者に対する風刺や、政治批判・社会批判が込められていることが多いが、日本ではあまり見られない。
 管理人としては、そうした笑いのある文化の方が少々高級な感じはするものの、そうではなければ笑いが成立しないわけではないし、政治性が文学に入り込んだ場合と同様に、あまり入れ込みすぎると却って笑いの幅を狭めることになるかも知れないと、ぼんやり考えただけだった。

政治的ジョークの力と限界

 本書『ナチ・ドイツと言語』は、笑いについての本ではなく、ヒトラー演説など、主にナチ・ドイツがプロパガンダ的に用いたさまざまな「言語」の社会的意味を探ったエッセイ集である。しかし、そのうちの一章「Ⅳ 地下の言語」で、政治と笑い(ジョーク)との関係を採り上げている。それは、政治的ジョークは、権力批判のコメディーと同様に、いやそれ以上に、権力者が創り上げた政治的プロパガンダへのカウンターとなり得るからである。ただし、著者の分析によれば、両面がある。

 一方で、「政治的ジョークは、一点の急所を笑いとばすことによって、ナチ宣伝の壮大な建築物を瞬時に崩壊させることができた。したがって、ナチ・ドイツでは、そのイデオロギーを真剣に信奉しないかに見えるジョークにたいして激しい魔女狩りが行われた」という評価がある。つまり、「いずれのジョークも、ごく小さな革命である」(G.オーウェル)ということだ。その代償として「権力者をコケにする大胆なジョークは、まことに危険をともなう」が、地下に広がるジョークそのものを完全に弾圧することは困難である。それゆえ、民衆側の大きな武器となる可能性があるわけだ。
 他方で、政治的ジョークに消極的な見方もある。と言うのは、確かに政治的ジョークは権力に風穴を開ける力を持つように見えるが、それは現実というよりは可能性での話である。実際のところは、ナチ党員の司法指導者が豪語したように、「いかなる政治体制も誹謗によって転覆されたことはない」のだ。より醒めた見方によれば、政治的ジョークは「通風弁」にすぎない、さらに言えば、行動による反抗の欠落についての自己非難の感情を抑圧し、耐えやすくするためのアリバイではないか、ということになってしまう。

「ドイツ式敬礼」ジョークに見るジレンマ

 一つ有名な例を引いておこう。ヒトラーが訪ねた精神病院で、整列した患者たちは(長い訓練の成果により)見事な「ドイツ式敬礼」を行った。しかし、2、3人の腕が敬礼のために上げられていなかった。これを見とがめたヒトラーが「どうして敬礼しないのか」と尋ねたのに対する答がオチ、「総統!私たちは看護人であります。気が狂っているのではありません。」というものだ。
 精神病患者をダシに使っているところは少々品が良くないが、それはひとまず措こう。このジョークは、ナチ政権下の常識である「ドイツ式敬礼」、あるいはそれを包み込むところのイデオロギーを、狂気だと言ってのけているわけだ。これは確かに、言葉による反抗としては最強度のものであろう。

 しかし、政権が狂気であると喝破するところまで来ているというのなら、なぜそれ以上の行動が起こらないのか、それどころかなぜそのような権力に皆が従い続けているのか、このジョークを口にした人自身が心の中で反問したに違いない。結局のところ、その権力はいまだにはびこっているではないか。
 こうした政治的ジョークには、苦々しい現実への反抗とそこから距離を置きつつも半ば受け入れざるを得ないジレンマが反映されている。そのため当時は、公然とは現れにくい民意の動向を探る手段として、SSの保安部が収集して活用したという。抵抗のしるしではあるが行動ではない、行動ではないが抵抗のしるしである、著者の書きぶりも苦しい綱渡りのようだ。

日本での一例と「笑い」の力

 政治的ジョークそのものではないが、かつて「コントに近い」という「ナンセンスなぞなぞ」がブームになった際(1970年代)に、「なぞなぞブーム」というエッセイ(『日本の名随筆57 謎』所収)で、筒井康隆も似たような指摘をしている。軽薄そうに見えるブームに非難を浴びせてばかりいる年配者や指導者をたしなめるという文脈なのだが、ナンセンスな笑いに対する評価は、「社会や政治への失望」や「やや遠まわしで安全な反逆」であるとしつつも、「笑っている間はまだ安全」な社会にとっての「安全弁」だという見立てなのだ。
 危機に直面しているとき、笑いは単なるガス抜きに終わってしまうのだろうか。管理人は生活の中で笑いを重視しているだけに、笑いには力がないのでは、と考えると残念に思えてしまう。ただ、そうした場面での笑い、つまり皮肉や諧謔といったものは、高級ではあるが笑いとしては不純なところがある。もっと突き抜けた笑いなら、力があるのではないか。あるいは、本当に覚悟を決めた笑いは、もはや笑いの範疇にはないということだろうか。


ナチ・ドイツと言語 ヒトラー演説から民衆の悪夢まで
宮田 光雄 著
岩波書店(岩波新書)


日本の名随筆57 謎
半村 良 編
作品社

書評

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