一人であって一人でない自分『私とは何か』

心理

 本当の自分とは何なのか、この問いに対して本書『私とは何か』は、唯一無二の「本当の自分」などないと言う。むしろ、対人関係ごとに見せる複数の顔、その総体こそが、本来の自分ということだ。著者はこれを「個人」ならぬ「分人」と呼ぶ。気鋭の小説家である著者は、自身の創作経験や友人との関係、海外の学校での出来事などを巧みに織り交ぜて、このことを解きほぐし、例証してゆく。なるほど、自分の感覚に照らしても、これはそのとおりだと思う。
 たまに、仕事仲間でも、友人・知人でも、家族でも、対人関係を一緒くたにしてしまい、その中で同じキャラクターを演じているような人がいる。これまでは、そういうのが「本当の自分(その人)」なのかと思っていた。しかし、本書を読んだ後では、失礼ながら、むしろそうした人は「のっぺらぼう」に見えてきてしまう。たまたま一致しているのなら良いけれど、何か無理をしているのではないか。

対人関係ごとに自然に変わる

 著者も強調しているが、この、対人関係ごとに変わる、というのは意図してそうするものではない。自然にそうなるのである。どうやら、人間にはこうした性質があるらしい。
 こうしたことは対人関係に限られない。以前、管理人がある工場主と話をしていた時のことである。工場主が言うには、「うちには、A工場とB工場がある。2つの工場は、似ているようで違い、違っているようで似ている。だから、事務所で考えていると、どちらがどちらか分からなくなることがある。でも、現場に行けば、すぐにその工場のモードに頭が切り替わる。」とのことだ。
 バイリンガルの人が、話そうとする相手の顔に応じて、自然に言葉が切り替わる、というのも聞いたことがある。こちらは対人関係の一種だろう。

脳にビルトインされている

 人間の自然の性質として、このような能力が備わっているのだとすると、それがなぜだか気になってくる。もっとも、推測するのは簡単だ。例えば、太古の昔の小部族でも、長老に対する時と、家族といる時と、同年代の気の合う仲間といる時とでは、相当に違った対応が必要だったはずである。これがごく自然にできるようでなければ、人間関係にきしみを生じてしまう。そこに淘汰圧が働いたとしても不思議ではない。
 推測あるいは憶測をさらに続けるなら、そうだとすれば、これは人間の脳にビルトインされているに違いない。複数の顔の間の連絡がまったく遮断されてしまうと、多重人格のような病理を生ずるけれども、ゆるやかに(通常はかなりしっかりと)統合されている限りは、正常であるどころか、欠かせない「機能」なのだろう。

SNS時代の処世術

 そう考えていくと、いま流行りのSNSには少し無理があるように思えてくる。(著者はさらっと流しているが)人間関係に応じて複数のアカウントやグループを使い分ける労力は並大抵でない。できたとしてもせいぜい2、3種類、それも意図的で不自然さを免れないものだ。つまり、SNSで扱える人格は、人間の通常の人格の構造に合っていない。SNSにベッタリと嵌って、逆に苦痛を感じている人が少なくないのもうなづける。
 これまでの処世術は、自分探しをしたり、自我の分裂を怖れたり、といったものであったが、これからは、「分人」が多様性を失うことを警戒しなければならないのではないか。もっと言えば、「分人」ですら、それほど安定したものではないかも知れない。ある幅の中で揺れ動き、時に矛盾し、変化していく、自分とはそれ以上でも以下でもないような気がしてくる。と、話が膨らみすぎたところで、今回は終わりにしたい。


私とは何か 「個人」から「分人」へ
平野 啓一郎 著
講談社(講談社現代新書)

書評

Posted by admin