漢字文化圏の言葉と芸術『書とはどういう芸術か』
管理人は、「書」については素人である。しかし、たまたま読んだ本書『書とはどういう芸術か』は、意外にも興味深く感じられた。本書の本題は、書家である著者が、書の芸術性の本質を探るという表題どおりのもの。それ自体は、はっきりと言い表すことは難しいものの明らかではないかという気がしていたが、なかなか奥が深い。
と言うより、明治時代に入ってから、つまり書が日本に入って来て何百年も経ってから、「書は文学」(言葉を書きつけたものにすぎない)と「書は美術」(文字の大小、配列、形を工夫する)の対立、という振れ幅の大きい議論がなされていたことに驚いたくらいである。
書は文学か美術か
素人目で考えても、書にはこの双方が必要であることは明らかである。もう少し付け加えるなら、やはり書かれる対象が文字であることは欠くことができない。書かれた文字の意味がそのまま鑑賞の対象になるわけではないし、「勢」という字を書くから勢いよく、などといった単純なことでないにしても、どういう意味の文字(列)を題材を選ぶか、その題材との関係でどういう書きぶりにするか、といったことは書の本質に属する事柄だろう。そして、文字であるからこその書きぶり、ということもある。だから、罵詈雑言や猥雑語では書にならないし、記号や抽象形では違和感が出てしまう。
また、書くという行為の一回性も書の特性だろう。筆者の持論である「筆蝕」というのも、そこから来るのだろう。一部がかすれたからそこだけ少し塗り直す、などというのはあり得ない。うまく行かなければ、一からやり直すしかない。そういう意味では、演奏や舞踏といった芸術と親近性があるのかも知れない。もっとも、問題になるのは書く行為そのものではなく、それを封じ込めた書である。大きな筆で駆け回りながら書く前衛的な書は、書く行為に着目するなら辛うじて成立している。しかし、行為だけを抜き出してしまったために、一種のパフォーマンスと化している。
漢字文化圏の歴史を背負った書
本題ではないが、書にまつわるさまざまな歴史も興味深い。最初の文字は石に刻られたもので、筆で書くのはその後の話、そして紙という抽象的な表現空間が最後に出て書が完成したという。また、(異説はあるようだが)草書や行書は楷書を崩したものではなく、竹や木で作られた「簡」に書かれた隷書が先にあり、それが草書、行書、楷書、と正書体に近づいていった。もちろん、媒体と字体の変化は相関している。
書は言葉の中枢に文字が居座る漢字文化圏の芸術であり、文化の中枢に位置してきたという。なるほど、吉本隆明の引用にあるとおり、「現在の言語水準で、〈りせい〉は、ひとたび《理性》という表意を頭におもいうかべたうえで、〈理性〉のことであると納得するほかない」。我々は、「文字を話し」「文字を聞く」。文字を書くことと言葉は、切り離すことができない。
ただ、著者のワープロ論は少々いただけない。いくら書くことと言葉が密着しているからといって、ワープロ作文では「作者の力が十全に発現されず、また空回りする軽いテンポ、軽いリズム、軽いのりの、デジタルな文章と文体が生まれる」というのは言いすぎだろう。普通の文章は書ではないし、文字が言葉のすべてでもない。技術の安直な利用が文章の軽薄化を招いたとは言えるかも知れないが、「ワープロ作家」が珍しがられた時代ならともかく、現在では乗り越えられた問題に思える。
最後に、著者は書についての考え方についても、書の作品そのものについても、いろいろと他者批判を行っているが、正直なところ「流派」の争いという感を抱いてしまう。あまりに極端な前衛については、管理人もどうかと思うが、伝統芸術ではそういうところに力点が行ってしまうものなのだろうか。
書とはどういう芸術か 筆蝕の美学
石川 九楊 著
中央公論社(中公新書)