実はナイーブな「ガイア=母なる地球」ではなかった『地球生命圏』
本書『地球生命圏』の出版は1979年(日本では1984年)。当時は環境保護ブームに乗って、ずいぶんと話題になった。何より、ガイアすなわち、地球上に生きるものすべてが全体として構成しているひとつの生命体、自らの棲み処である地球環境を積極的に維持し調節している生命圏、という概念あるいはレトリックが、ガイア(女神)=「母なる地球」という連想を誘ってイメージが膨らんだ。
しかし、実際に本書を読めば分かるとおり、本書の主張はそうしたイメージとは少々異なっている。
したたかなガイアと傷つきやすいガイア
本書を読んだことのない人は、本書に次のような件があるのを知ったら、驚くことだろう。曰く、「分別ある世界なら、産業廃棄物は禁じられるのでなくうまく利用されるだろう」、「オゾンの減少は騒がれるほどには致命的なものでないのか、あるいは理論的に誤りがあって、いちども減少したことがないかのどちらかだ」。
この点については、本書の訳者である星川淳氏による(翻訳書の後記を踏み越えてしまった)後記「体験的ガイア論」の言葉がある意味正直だ。
少し単純化すれば、訳者の見方は、ガイアは地球全体の精緻なメカニズムであるが故に一部が傷つくと全体に狂いが生じるというのに対し、本書の見方は、ガイアは地球全体の柔軟なメカニズムであるが故に一部が傷ついても全体としての調整プロセスが働いて回復する、というわけだ。出発点は同じだとしても、行き着くところは違う。「微妙なズレ」では済まないかも知れない。
環境活動家でもある訳者の見方がこのようなものであることは当然とも言えようが、本書が(さすがに本書を読んでいるはずの)メディアで扱われる際のイメージも、(ほとんど本書を読んでいないであろう)世間のイメージも、この見方に近いと言えよう。そして、その見方は、良かれ悪しかれ、楽観論を基調とする本書の考えとは距離があるのだ。
乗せられた日本の読者
もちろん、著者も訳者の見方にあるような危惧や不安にまったく配慮していないわけではないし、客観的にいずれの見方がより適切なのか、現時点でもはっきりしたことが言えるわけではない。あえて言えば、攪乱があっても調整プロセスが働くことは事実であるが、さすがに短期間で攪乱しすぎたのではないか、という懸念が募りつつあるというのが実際のところかも知れない。
それでも、このように歪曲(とあえて厳しく言おう)されて捉えられてきたのは、正直なところ驚きである。そもそも、著者はアカデミズムの学者ではなく、シェル研究所からの依頼を受けて研究していたことがあり、ガイア仮説もその際の着想から生まれている。逆の意味での歪曲はないとしても、「母なる地球」から連想されるようなナイーブな見方とはギャップがあって当然であろう。
本書の海外での評価は知らないが、どうも日本の読者(非読者というべきか)は簡単に乗せられてしまうようで後味が悪い。
地球生命圏 ガイアの科学
J.E.ラヴロック 著
星川 淳 訳
工作舎









