差別と差別語の間『差別語からはいる言語学入門』
本書『差別語からはいる言語学入門』は、差別語をテコにした言語学の本である。さまざまなニュアンスが染みつく日常語は豊かな言語の土壌である反面、その負のニュアンスが肥大化すると差別語を生み出す、したがって差別語を通して見ると生きた言語のさまざまな側面が見えてくる、という仕掛けである。
ただ、著者の別の本、例えば『ことばと国家』ほどにはキレがない(エッセイとして見れば十分に面白いのだが)と感じられるのは、関心が向かっているのはあくまで言語学であり、差別や差別語そのものに切り込んでいるわけではないからだろうか。
差別語糾弾運動と言葉の抹消
著者は言語学の観点から、いわゆる差別語糾弾運動に対し、抑圧された民衆の側からの運動である点で一定の評価を与える立場のようである(ただし全面的な賛成ではない)。ただ、管理人は少し距離を置きたい気がする(もちろん全面的な否定ではない)。それはこうした運動が、言葉が使われる文脈を十分に考慮することなく、まさに言葉そのものを糾弾することに流れやすいからである。
だから「差別用語集」という(やや安直な)発想にもつながっていくのだが、首尾よく辞書から抹消したとしても、差別の要素の一つを取り除いたことより、言葉の損失や表現の委縮の方が大きいのではないかと感じてしまう。一時期の過剰な「ポリティカル・コレクトネス」のように、それ自体が社会の緊張の種となることもあるだろう。
差別と差別語と差別用法
差別語(とされている語)を差別の目的で使うのは、差別語を使わずに差別するのと同様に、論外である。差別の目的でしか用いることのできない言葉は、正当な使い道がないから不要である。しかし、疑義のある言葉の多くは、差別的な意味合いを含まない本来の語義と、差別的な意味合いを帯びた問題ある語義の両面を持っていて、差別以外の目的で使うこともできる。
逆に言葉としては必ずしも差別的ではないが、用法が差別的であることもあるだろう。本書に出てくる大内兵衛の例は、意図せずして用法が差別的になってしまった例であろう。このケースでは、「特殊部落」自体に既に問題があると言えようが、これが指す対象が変わらない限り、どう言い換えても問題は収まらない。大学の教授会に内在する特殊な欠点の引き合いに使ってしまった用法の誤りが「特殊部落」(にいる人)を貶めてしまう。
しかもややこしいのは、こうしたパターンの用法のすべてが差別につながるわけでもないことだ(例えば、「〇〇する広告塔」や「一本足打法」など)。こうなってくると、差別と差別語の接点をもっともっと入念に分析する必要が出てくる。とても一筋縄ではいかない。あらゆる知見が必要になってくる。その一つが言語学ということになるのだが、本書はあくまで言語学の本で差別や差別語の本ではないから、隔靴掻痒の感があるわけだ。
異色の事件、「豚の頭」か「豚の生首」か
差別語とは少し距離があるが、本書の中で異色なのが、最後の章「豊橋豚のナマクビ事件の巻」である。被告人が部落差別への抗議として、ある事業者団体に乗り込んだ際、「豚の頭」(首から上の部分)を持っていったのが恐喝罪に問われた事件の顛末である。著者がこの事件に関わったのは、被告側から、事件前に団体が配布した文書が差別的であるとする鑑定証言ができないかという依頼があったからである。
著者が問題の文書(本書に全文が引用されている)を確認したところ、差別的というようなものではなかった。しかし、著者は別の戦い方があったのではないかと考える。「豚の頭」は訴訟の途中から「豚の生首」へと呼び名が変わってしまい、それが裁判官を初めとする関係者一同に予断を与えたのではないか、という言語学的視点である。さらに言えば、「豚の頭」は解体を生業とする被告人の日常身近にあるものだ。それに対してことさら、残忍で陰湿でおそろしげな色を付け加えるのはフェアでない……。
しかし、である。被告人は、生業の日常身近にある数多の物の中から、わざわざ「豚の頭」を選んだのである。真意はともかくとして、「言うことをきかないと……」という言外の意味に訴えるためだと見られても仕方がない。著者は、現場写真を撮影した警察官が「豚の頭」と報告していたことに特別の注意を向けるべきだと言う。しかし、警察官にとっては「豚の頭」であっても、それを突き付けられた被害者にとっては「人間の頭」の象徴、つまりは「豚の生首」なのではないか。確かに、検察側の思うつぼではあったけれども。
差別語からはいる言語学入門
田中 克彦 著
明石書店