エリート教養人の快楽と自己満足『罰せられざる悪徳・読書』

文学

 本書『罰せられざる悪徳・読書』は、蔵書2万5千冊という読書人である著者が、理想の読書について語ったものである。タイトルは、冒頭で引用されているアメリカの詩人の散文詩から採られたもの。訳者の解説によると著者のお気に入りで他書の表題にも使われているらしい。訳者の評も「考えれば考えるほど心憎い題」ということだ。ただ、管理人にはどうも、読書ばかりしている青びょうたんの学生が既に実社会で揉まれている悪友に強がりを言っているように聞こえてしまう。もちろん、本書の内容はそんな低レベルのものではない。それは確かなのだが。

理想の読書か浮世の仕事か

 管理人がこの種のエッセイに惹かれながらも、ちょっと皮肉を言いたくなってしまうのは、結局のところ、ただの快楽であり、自己満足でしかないはずの読書(それで何の不満があろうか)を、必死になって精神的高みに持ち上げようとする意識が透けて見えるからだ。文面では「そうではない」ように言いながら、ほとんどの読者もまた著者と同様の考えの持ち主のはず、「分かっているよね」という阿吽の呼吸が感じられる。
 適切な読書をすれば、必要な知識や物の見方、考え方が身につくのは確かだ。しかし、そうした実利は結局のところ、仕事のためのやむを得ない読書と同じことで、理想の読書からは放擲されるべきものなのだろう。精神を鍛える、というようなもっと高尚な話になっても、読書が手段になっている点で、所詮は同じことだ。質の低いベストセラーや世間に埋もれた天才を世に示すことは、理想の読書どころか悪趣味というほかない。それはそうだろう。
 著者は、理想の読書と虚栄の誘惑との間をさまよって、遂に理想には辿り着かなかったことを悔いているようだ。しかし、管理人は、虚栄の弊があろうとも、仕事の方を評価する。時に才能や栄誉に溺れそうになりながらも現実の荒波を渡っていく方がよほど難しい。そもそも、誰かが理想の読書人であることは管理人とは何の関係もないことだが、誰かの仕事はいかほどかは関係がある。実際のところ、著者も「rich amateur」を目指した「仕事人」であったようだ。それならば、「エリート」や「教養人」などと言わず、仕事プラス「快楽」と「自己満足」で良いではないか。

読書と学校教育

 ところで著者は、学校での文学教育にかなり批判的であるようだ。真の読書人への行軍の初期過程では、学校教育での教科書や宿題に挫かれないことが肝要であると述べている。これは、読書に限らず、まったくそのとおりであると思う。別に学校教育そのものを否定するのではない。学校教育は、モノをつまらくする天才であるから、つまらなくなっても構わない範囲に自己拘束してもらった方が良いということだ。
 読書から離れて、学校での体育を考えてみる。そこで最も忌み嫌われているのは、間違いなく「持久走」だろう。ただひらすら走らされる「持久走」などというものは、学校という塀の内にしか存在しない。学校の外にあるのはジョギングやマラソンであり、皇居の外周や大きなマラソン大会で多くの人が喜々として走っているのを見ると、「持久走」との違いに驚かざるを得ない。学校での「持久走」に挫かれて、ジョギングやマラソンをつまらないものだと勘違いする子供が出ないことを祈る(学校に監禁されない限り、そんなことにはならないと思うが)。
 読書もこれと同じだ。本来は面白いはずの小説や評論を、学校の国語の時間に読まされて、興味も持てない解釈をやらされた挙句、それらを再読するモチベーションまで奪われないかと心配だ(こちらは本当に心配している)。学校の国語の時間には、日本語を日本語としてしっかり読み書きできるようにすることに集中すれば、その実利から子供の反応も少しは良くなるだろう。質の高い小説や評論は、あえて教科書などに載せず、思わせぶりに「奥の院」に隔離しておけば子供の好奇心も刺激するだろう。いっそのこと、成人図書に指定して子供からのアクセスを禁じてしまった方が、アクセスが伸びるかも知れない。


罰せられざる悪徳・読書
ヴァレリー・ラルボー 著
岩崎 力 著
みすず書房

書評

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