科学は神話の後継者『宇宙の始まり』

歴史,科学,青空文庫

 本書『宇宙の始まり』は、スウェーデンの物理化学者である著者が1907年に書いた、神話時代から現代(著作時点)までの宇宙開闢の認識についての「進歩」を語ったものである。あえて「進歩」と言ったのは、著者が科学者であるばかりでなく、同時代の西欧の知識人の例に漏れず生粋の進歩主義者であるらしく、そういう視点でモノを見ているからだ。
 それが昂じてか、神話時代の人間や文化のことをさかんに「野蛮」とか「幼稚」などと言っているのは、やや行き過ぎか。それでも、北欧神話であるエッダの「自然に対する見方の忠実さ」を高く評価するあたりは、さすがに科学者である(お国自慢もあろうか)。ただ、話として面白いのはむしろ神話時代の(現代から見ると)荒唐無稽な宇宙創成物語の方である。

神話から科学へ piece by piece

 さて、本書に収められた、神話時代から現代までの宇宙の認識を順番に眺めると、確かに、次第に科学性が増してくるという一貫した傾向があるのは確かである。これを「進歩」と言うなら、そのとおりであろう。ただ、この「次第に」というのがミソである。何かが急激に、あるいは質的に変わるわけではない。断絶があるわけではない。最初はある部分、次にまた別の部分、というように神話が科学に置き換えられていくということだ。
 人間は物語好きである。自分たちの周りの世界の、説明(理解)できないことを説明(理解)できないままに置いておくことができない。そこを物語で埋めようとする。そこで、常に世界を説明するための一定の容器があって、それが物語で埋められている。神話時代は、目で見ることができること以外、ほとんど神話で埋められている。その神話が、少しづつ科学で置き換えられていって、現代ではほとんど科学で満ちている。つまり、容器は常に、その時点で最も納得のいく説明を与える物語で埋められているというわけだ。

近代科学にも残っていた神話

 実際、近代に入ってからも、知識の欠けるところの説明には相当に神話的要素が残っていた。ニュートンも遊星運動の規則正しさについて「こういう驚嘆すべき機構は、何ものか一つの智恵ある全能なる存在によって生ぜられたものに相違ない」と言っている。(本書とは別の話になるが)あのチョムスキーもあるインタビューで、ニュートンが『プリンキピア』で自然の事物の一つに挙げた「半霊的な実体」について、「たしかにそれは正しい答ではなかった。だが、ニュートンが答を求めてなし得た最良の推測だった」と述べている。

科学が埋めていく白いキャンバス

 その意味で、科学は神話の後継者である。説明すべき世界の中でも、日常に近い世界は、それが素朴物理学のようなものであるとしても、比較的早く科学で埋められる。そこは現実に基づかなければ、現実からのしっぺ返しを食らうからだ。それに対して、宇宙の創生、天の彼方、地の果てなどは、間違っていてもしっぺ返しを食らう気遣いはない。大きな白いキャンバスが広がっているわけだ。本書の序盤はその世界である。
 この白いキャンパスは科学によって埋められるに従って、だんだんと狭まってきたけれども、現代科学の最先端でもまだ見通せない分野は残っている、いや、新たに作られてもいる。例えば、人間の意識の問題やAIなど。これらについて現在言われている仮説は、後から見れば神話のようなものに見えるかも知れない。人間の認識の限界やバイアスはいつもある。


宇宙の始まり
S.A.アーレニウス 著
寺田 寅彦 訳
電子本ピコ第三書館販売


本書は訳者である寺田寅彦の全集などに入っているほか、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000226/card1150.html)にも入っている。

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