繰り返される『論文捏造』は科学の崩壊なのか
日本でも数年前、STAP細胞にまつわる事件(STAP事件)があった。この時はまさに「劇場型」とも言うべき事件の展開があって世間の注目を集めたが、結局、ES細胞の混入ということで落ち着いた。管理人としては、個々の経緯で腑に落ちないところも残ったが、世間はもう騒動に飽きたのか、細かなことは気にせずにあっさりと結論を受け入れたようだ。いずれにしても、STAP細胞の論文が科学的に成立するものではなかったことは、確かなようだ。
超電導での「史上空前の論文捏造」
本書『論文捏造』はSTAP事件ではなく、ベル研究所の科学者ヘンドリック・シェーンが起こした「史上空前の論文捏造」(シェーン事件)に関するものだ。ちょうどSTAP事件での検証実験が一段落したころに、参考になるかと思って読んだものだ。あのSTAP事件が霞んでしまうくらいに規模が大きいものの、事件の経過は良く似ており、歴史は繰り返すといったところだ。本書の冒頭にも、シェーン事件の直後に、韓国でのヒトクローン胚を使ったES細胞作製の事件、日本の理研、阪大、東大での事件が繰り返されたとの指摘がある。
シェーン事件の概要はこうだ。シェーンは、それまで超低温でしか起こらないと考えられていた超電導を、より常温に近い温度(つまりより実用化しやすい条件)で次々と成功させていった。そして、その成果は、足掛け3年にわたり『サイエンス』や『ネイチャー』といった権威ある科学ジャーナルに論文として掲載されていき、シェーンはノーベル賞の最有力候補とまで言われた。他方で、世界中の科学者が追試を試みても、一人として成功しない。しかし、追試が成功しないのは、超電導の世界に革命をもたらしたシェーンの実験装置「マジックマシン」に秘密があるからであって、現象自体に再現性がないからではない、はずだ……。
透けて見えてしまった「真実」
こうした基礎科学の領域での捏造は、産業界でしばしば見られる検査データの捏造とはかなり性質が違う。産業界での捏造は、誰も追試など行わないから経済の原理が勝つだけの話だ。しかし、基礎科学の場合、追試できないことにより、捏造はいずれ発覚する。そのことは捏造者自身も良く分かっているはずだ。にもかかわらず、なぜ捏造するかと言えば、それは発覚のしようがない、つまり論文に書かれた科学的事実は正しいと考えていたからではないか。彼らは、実験データが作り物であるなど、そこに不正があることは認識していても、論文の結論の正しさには自信、というより確信を持っていたに違いない。
著者も取材の過程で、「シェーン本人も、他の誰かが追試に成功するはずである、と高をくくっていた気配がある。」と感じたという。「シェーンは恐らく実験の中で、本当に超電導が起こった形跡を何らかのときに見てしまったのではないか」と語る研究者もいたという。まったくの推測であるが、STAP事件のO氏にも、同じような感覚があったのではないか。その時に、あるいはその後に、しっかりしたエビデンスを取ることができなかったことを考えれば、それは錯覚だったのだろう。しかし、真実が透けて見えてしまったと思い込んだとき、この種のことが起こるのは、避けがたいことのようにも思える。
科学のプロセスと科学ジャーナル
ここからは、やや極論である。論文捏造が繰り返されるのは由々しき事態であるし、研究機関や科学ジャーナルの権威と信頼の揺らぎ、多数の科学者が無駄な追試に費やす時間と労力など、科学者コミュニティにとっては大変なことだろう。しかし、外野が大騒ぎするようなことではないのではないかとも思う。
と言うのは、論文が科学ジャーナルに掲載され、追試その他の批判的テストを経ることで、残るものは残り消えるものは消える、という科学のプロセス自体はまったく正常に機能しているからだ。確かに、本書も指摘するように、カミオカンデやSPring-8など、特殊な実験装置や実験者の技能への依存傾向が再現性を妨げ、テストを難しくしてはいる。しかし、何十何百という追試の失敗が何の疑問も呼ばず、不自然な作りものの実験データが見過ごされ、確立した既存の知見との矛盾も出てこないことなど、あり得ない。実際、「マジックマシン」のシェーン事件も、実験の「コツ」が云々されたSTAP事件も、結局は科学者達のテストに耐えられなかった。
また、論文の査読に関して、本書は「編集者によるセレクトも審査も当然、不正確なものを排除し、再現性が確かであるもののみを選んでいる、というのはわれわれの幻想に過ぎなかった」と述べている。STAP事件の際にも、同様の指摘があった。しかし、そもそも査読は、そこまでの役割のものではないし、そこまでの負担を背負い切れるものでもないというだけのことだろう。論文が本当の意味でテストされるのは、むしろ科学ジャーナルに掲載されて世界中の科学者の目に晒されてからであろう。論文掲載はゴールではなくスタート、掲載された論文の成果が「科学の共有財産」入りするのは、もとよりずっと先のはずである。
論文捏造が繰り返されると、再発防止の声が上がる。しかし、そのためにお役所仕事的な手続が科学の日常に持ち込まれれば、科学が窒息してしまうかも知れない。
科学者コミュニティとしては、捏造も失敗も同じようなもの、科学に伴う必要コストなのだと開き直るだろうか、それとも不祥事のツケで人員や予算を削らることを怖れるだろうか。
論文捏造
村松 秀 著
中央公論社(中公新書ラクレ)









