「美」そのものを見抜けるか『にせもの美術史』
本書『にせもの美術史』は、美術品の贋作者とそれに騙される蒐集家、そして見破ろうとする鑑定家の対決を描いたものだ。現代は贋作の黄金時代だそうで、著者が5万点に及ぶ美術品を調べた結果、その40パーセントが偽物あるいは偽物同然という代物だったという。
贋作者の中には、真作と見分けのつかない作品を仕立てる強者もいて、美術界は手を焼いてきた。贋作であることが分かった作品でさえ人気を博したというバスティアーニのような伝説の贋作者に至っては、普通に創作に打ち込めばそれなりの地位や名声が得られたのでは、と首を傾げたくなるほどだ。こういう人は、金銭的利益もさることながら、贋作を作ること自体に情熱を燃やしていたのだろう。
「動かぬ証拠」か「美」か
興味深いのは、まさに副題のとおりで「鑑定家はいかにして贋作を見破ったか」である。本書に出てくる見破り方を挙げると、真作の様式や年代との異同、材質の成分や特徴、作品の来歴、署名の突合せ、ひび割れや腐食の状態、紫外線やX線による科学テスト、といったものだ。作品自体にある種の違和感を感じるようなことはあったとしても、必ずしも、真作が持つはずの「美」を持っていないから贋作、というような判断をしているわけではないということだ。実際問題、そうした判断だけでは万人を納得させることはできないだろうし、年代や材質のような「動かぬ証拠」をもって判断する方が確実ではあろう。
しかし、美術品が持つ「美」そのものを直接に判断して真贋を見極める、さらに言えば、真贋にかかわらず「美」そのものによってその価値を見極める、ということはあり得るのだろうか。美術評論家ウォルター・パークは、「芸術作品は生きている。偽物は死んでいる。人は”一時的に”だまされるかも知れないが……ともに暮らしてみたまえ。やがてその生気のなさに憎しみさえ感じるようになるだろう。芸術作品と長く暮らせば暮らすほど、それらを生むに至った愛と命が花ひらくのを、いっそう強く感じるに違いない」と言ったそうだが、実際のところはどうなのか。贋作がはびこっている状況を考えると、かなり難しいのではないか。
「ヒロシマ」騒ぎでも
数年前、自称「ヒロシマの被爆二世の作曲家」が、ヒロシマをモチーフにしたという「交響曲第1番《HIROSHIMA》」を世に出して話題となった。その後、この作品は、ヒロシマとは何の関係もないことが分かった。この作品を持ち上げた多くの関係者、すなわち特集を組んだNHKを初めとする諸メディアや音楽関係者は手もなく騙されていたわけだ。管理人は皮肉半分で、この自称作曲家のセルフ・ブランディングの見事さに感心したものだが、騙されて面目をつぶされた人々はこぞって、手のひら返しで彼を批判した。
しかし、このような手のひら返しも、ゴーストライターが内幕を暴露したからこそ起きたわけだ。それがなければ、少なくともブームが去るまでは、それなりの評価を保っていたに違いない。暴露の前に作品の問題点を指摘した少数の専門家もいたようだが、他の著名作曲家のモチーフの寄せ集めにすぎない、といった技術論が勝ったものだった。管理人が知る限り、作品そのものから、そこに虚偽が潜んでいることを喝破した者はいなかった。しかし、批判するわけではない。やはり、無理なのだろう。
岡本太郎が縄文土器に見たもの
それでも、希望は捨てたくない。類まれな天分を持った者には、「美」が見えるのではなかろうか。例えば、縄文土器に衝撃を受けたという岡本太郎氏はどうだろうか。岡本氏は、それまで芸術の対象とは見られていなかった縄文土器に「美」を発見し、それをメジャーなものにした。なるほど、例えば土偶は、人間を模しているはずなのに独特のフォルムを持っているし、そこはかとない愛嬌も感じられる。こうしたことは、土偶の製法や役割などを知らなくても、感じることができそうだ。
もっとも、縄文土器を世に出した1950年代、岡本氏は芸術家として既に相当の名声を確立していた。独特のフォルムも愛嬌も、岡本氏の名声の後光が射しているのではないか。それだけのことなら、《HIROSHIMA》騒ぎの状況と変わらないではないか。やはり凡人には見えていない。では、岡本氏の目には何が見えていたのだろうか。
にせもの美術史 鑑定家はいかにして贋作を見破ったか
トマス・ホーヴィング 著
雨沢 泰 著
朝日新聞社









