動物の性と人間の性『失われた名前』
本書『失われた名前』は、幼くして南米コロンビアのジャングルに置き去りにされ、「サルとともに生きた」女性の自伝である。「サルとともに生きた」とは副題の言葉であるが、実際、半ばサルの仲間になりながら、見様見真似でジャングルを生き抜いたのだ。もっとも、本書の半分以上は(後悔たらたらで)ジャングルを離れた後に様々な悪人の間を転々とする苦難が占めており、いったん幸せな生活をつかんだ後にも「後編」で書かれる予定の波乱があるというのだから大変な人生である。
ジャングルとサルのアイデンティティー
推測したところによれば、彼女がジャングルに置き去りにされたのは、5歳くらいのことだという。それから、これも推測ということだが、10歳くらいまでジャングルでサルの群れに交じって生活していたという。そのくらいの年齢の子供が外からの援助なしにジャングルで自力生活できたというのがまず驚きである。物心両面でサルが支えになってくれたとはいえ、当然、サルが手取り足取り教えてくれるわけではない。
しかし、言葉が通じないまでも意思は通じていたようだ。というより、早晩彼女自身が人間の言葉をなくし、代わりにサルの言葉(鳴き声)を身に着けた。二足より四足の方が楽になっていく。樹にも登れるようになる。そうしてジャングルでの生活、いや生存に馴染んでゆく。ほとんどサルと同化したような生活。そうであったからこそであろうが、人間の生存能力もまんざら捨てたものではないと思わせられる。
人間の性、人間のアイデンティティー
本書で繰り返し語られるのは、彼女のアイデンティティーの揺らぎである。サルと仲良くなり、ほとんど群れの一員のように行動するが、やはり自分はサルではない、人間だ。人間が恋しい。しかし、ジャングルで出会う人間は自分の仲間ではなく、自分を仲間として迎え入れてくれるのはサルたちだ。この、サルと人間との間を行き来して崩壊しそうなアイデンティティーが崩壊せずに済んだのは、遂には人間世界に舞い戻ったのは、人間の性なのか。
言葉の問題もそうだ。5歳といえば、急速に母語を習得していく時期だが、人間世界から隔絶されて彼女の中の言葉は急速にしぼんでいく。本書では個々のサルに名前をつけて説明されているが、それは言葉を失った当時の彼女が実際につけた名前ではないという。名前すら、名づけすら意識に上らないほど言葉から離れていたわけだ。幸いにして、後に人間世界に復帰すると、急速に言葉を取り戻していく。これも人間の性か。本書ではジェットコースターのようにさまざまな事実が語られるが、安直に教訓を引き出せるようなものではない。
サルの本能と人間の道徳
優しいサルの登場する本書の前半と醜い人間の登場する後半は、著しい対照をなしている。この種の話が出ると、安直に「それにひきかえ人間は」とか「動物に学べ」などという粗雑な道徳論、感情論が出ることがあるが、これはいただけない。特にひどいのがメディアで、ボノボの生態(雑婚で平和を保っている)を扱ったあるテレビ番組で、最後に出演者が「人間ももっとスキンシップすれば」などとコメントしていて唖然とした。本音なのか演出なのか、これで一般受けすると踏んでいるのであろう。
しかし、人間がサルの真似をしても、道徳的にも平和にもなれない。彼女にしても、運悪く最初に出会ったのがそれほど温和でないサルであったなら、もっと好戦的なサルであったなら、危険な肉食獣に出くわしたのと変わりなかったかも知れない。それでも、そうした動物が「悪い」わけではない。そこにあるのは本能であって、道徳ではないからだ。道徳があるのは人間だ。道徳があるから非道徳もある。本書にも両様の人間が出てくるとおりである。どうするかは人間が考えるほかない。人間として身に着けるほかない。
失われた名前 サルとともに生きた少女の真実の物語
マリーナ・チャップマン 著
宝木 多万紀 訳
駒草出版