古典を超えた現代の古典『走れメロス』
管理人が本作『走れメロス』を初めて読んだのは、小学校の国語の教科書だったのではないかと思う。なぜ(太宰の他の作品を差し置いて本作が)教科書に載るかと言えば、信頼の尊さを貴ぶ内容が、国語というよりは道徳の教材として優れているという見立てなのだろう。そういう傾向は、教科書の中の他の作品でも同様である。だから、その時は、他の作品の中の one of them だった。しかし、本作の肝は、その点(だけ)ではないと後になって気づいた。
疑いを打ち破る信頼
本作でメロスは、濁流を泳ぎ切り、山賊を撃ち倒し、灼熱の太陽に眩暈を感じ、疲労困憊になりながら、人質となった親友セリヌンティウスの待つ城にたどりつく。その途中、「もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか」、「ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。」という悪魔の囁きも聞く。そういう葛藤の末である。
対して、城で待つ親友セリヌンティウスは信頼の中にあった、はずだ。メロスも「君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。」と考える。ここまでは、良く出来た道徳の教材である。
しかし、最後にそれを大きく超える。途中で一度悪い夢を見たというメロスの告白に続けて、セリヌンティウスも言う。「私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った」。迷いや疑いの可能性があるからこそ、信頼が尊い。影があるから光がある。
それだけではない。ここまではメロスの話で100%、セリヌンティウスはまったく背後に退いていたのが、こちらも一挙に100%に膨らんだ。全編を埋め尽くすメロスの活躍と苦難と葛藤の裏にぴったり張り付くように、セリヌンティウスにも同じ活躍と苦難と葛藤があったのだ。物語の最後の最後に来て、物語が2倍に膨らんだ。
古伝説とシラーの『人質』
本作の筋そのものは、ギリシアの古伝説によったシラーの『人質』という詩から採られているという。問題は、最後の部分である。これは、原典にも入っているのか、太宰の創作なのか。ずっと疑問に思っていたところ、ウェブに実際に太宰が参考にしたという翻訳の付いた論文があった。最後の部分は、原典にはない太宰の創作であった。
というより、原典ではメロスは途中で疲れ切って動けなくなるだけで悪魔の囁きを聞くこともない、良く言えば一直線、悪く言えば一本調子である。原典を「信頼」の物語りとすれば、太宰の作品は「信頼」プラス「疑い」、掛ける2になっている。さすがと言うほかない。
現代の古典、未来の古典
太宰は人間失格とか斜陽とかで人気があるが、それよりこういう翻案ものが光っている。そして、暗ではなく明がむしろ似あっている。それを示すのが、随所に見られる喜劇のような軽やかさだ。「『待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。』と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。」というお道化。そして、題名にもなっている「走れ!メロス」という手放しの鼓舞。
本作のスピード感と明快さを備えた驚くほどの現代性は、あと50年、いや100年経っても失われないのではないか。
走れメロス
太宰 治 作
新潮社(新潮文庫)









