隠れた哲学パラメータをえぐり出す『100の思考実験』
本格的な哲学や倫理学は取っつきにくい。一般向けの本を書いてもあまり売れないだろう。そもそも書くのが厄介だ。しかし、思考実験を持ってくると、話は変わってくる。本書『100の思考実験』はそこを狙い撃ちしたような本だ。思考実験の本領はそういうところにあるのではないが、思考実験は極めて具体的に問題設定するから、素人でもともかく理解することができる。考えることができる。自分を食べてほしいと望むブタを食べるのは残酷か、それとも食べないのが失礼か(本書のNo.5)。「あなたはどこまで考えられるか」(本書の副題)。
マニアックな続編に期待したい
本書では有名なものからそれほど有名でないものまで、100の思考実験が採り上げられており、それなりに読みごたえがある。ただ、1件で4頁ほどに圧縮されているため、正直なところ食い足りない。例えば、「幸運のルーレット」は「過去に起きたことの確率はずっと同じだろうか?」という副題を見てかなり期待したのだが、単なる「ギャンブラーの誤謬」の話だった。もし5回連続で赤が続けば、管理人ならベイズ理論を適用して迷わず赤に賭けるところだが、そういう捻った展開にはならなかった。
さらに言えば、ベイズ理論で赤の確率が上がるのは、5回連続の赤によって「幸運のルーレット」が歪んでいることを示唆する情報が得られたためであるが、もし実際に歪んでいるなら50%を超える客観確率が決まっているはずである。他方、天気予報で雨の降る確率が10%と予想されたところで実際に雨が降った場合、実際に10%のところで運悪く90%の方が出たのか、実は10%の予想が間違っていたのか、区別する意味はあるのだろうか。予測の時点でルーレットと同じように客観確率があるなら、それと比べることはできるが、客観確率は100%だろうから常に間違っていることになってしまう。あるいは、情報不足のため30%と予測すべきところを10%と誤ったということはあるかも知れないが、同じ情報でもやはり10%と予測するのは正しくない、ということは言えるのだろうか。
著者は一般向けの哲学の解説で著名な人らしいが、こういう一つのテーマをゴリゴリ押していくような続編を期待したい。あまり売れないような気もするが。
思考実験と現実問題
本書によると、思考実験とは「実生活を複雑にしているさまざまな要因を取り除き、問題の本質をはっきり見定める」ことを目的とする。ところが、世間では肝心のこの点が十分に理解されていないらしい。少し前、いわゆるトロッコ問題に対して、「本線にも待避線にも行かないよう、ポイントレールを中立にすればトロッコは脱線して止まり、ハッピーエンド」というものがあった。これ自体は他愛もない「ネタ話」なのだが、トロッコ問題は現実問題ではなく思考実験だから、そうした第三の解は許されない。「ポイントレールを中立にすればトロッコは脱線して全員が死んでしまう」という条件でも付け加えるまでのことである。
この話には続きがある。この「ネタ話」を受けた話だったと思うが、あるテレビのコメンテーターが、「トロッコ問題のように、二者択一を迫る議論は許せない。こういう議論を始めた学者は許せない。」などと言い出した。どうやら複雑な現実問題を単純な二者択一に還元して結論を迫る輩を批判したかったようなのだが、それをトロッコ問題に結びつけるのは適切でない。現実問題ならばそれこそ「ネタ話」のように、あるいはそれ以上に第三の解を追求すべきだが、思考実験はそれ自体の解決が求められる現実問題ではない。これを混同してしまっては批判の矛先が違うというものだ。
そうは言いながら、思考実験にもまさに思考実験としての効果を発揮させるためには、一定の現実感は必要であろう。そこで、思考実験にも話の出来の優劣がある。重要なのは、話の前提と結論のバランスが取れていることだ。思考実験であるから相当程度は非現実的な前提を置かざるを得ないのだが、これがあまりに荒唐無稽になって、結論の違いを無意味にするような場合には、「思考」の際に問題の本質をなすパラメーターに集中できなくなってしまうだろう。例えば、遺伝子操作によってブタが人間のように話をする世界で、旧来の倫理は意味をなすのだろうか。その「ブタ」は依然としてブタなのだろうか。
100の思考実験 あなたはどこまで考えられるか
ジュリアン・バジーニ 著
向井 和美 訳
紀伊国屋書店